電線、電柱

電線と町屋:京都・左京のどこか

ひさしぶりに「来日」していると(最近冗談まじりにいわれてまったくそのとおりだとおもって自分でもそういっているのだけれど)、毎度のことながら、一年ぶりの極東の島国はいろいろと変化がはやいのでただのカルチャルギャプところではすまないぐらい戸惑うことになるのだが、テレビを見ては、見たことも聞いたこともない芸人が、そんなのかんけえーねええ、とかいいながら海パン一丁でおどりくるってるのをみて、くだらなねえーというのもはばかられる。そんなわけで、毎度のことながらテレビ番組のくだらなさには怒り心頭で、テレビにやつあたりするわけにもいかず、でやんでえーい、とちゃぶ台でもひっくり返したくなるが、いまどきの我が家も例にもれず、もはや居間ともよばれなくなったリビングルームなるところにちゃぶ台なんぞあるわけもないので、テレビのリモコンを放り投げ、極東のわが祖国は師走にもかかわらず春の陽気、そこでぷらぷらと都の小道をぶらぶらしていると、その町並みだけではなく、とうていこれまで気付きもしなかったようなような細部に気をとられたりしては、あなあもしろし、などとおもったりすることだらけなのだけれど、たとえば、今日の御題にありますとおり、電線、電柱。電線もただの電線。電気を送る線。電柱はそこらじゅうにありますがな。


電線、電柱、土蔵そして夕暮れ時:やはり京都の左京のどこか

昔、東京で僕が通っていた某国立大学でロシア語を教えていた作家のウラジミール・ソローキンが、日本でおもしろしおかしきとおもったことのひとつに電線だったか電柱をあげていたのを今でもよく覚えている。そして、それがものすごいエロチックだと。なんちゅうことをおっしゃる御仁だ、とそう当時はおもったきりだったけれど、電柱なんて犬が小便ひっかけてるとか、電線なんぞはカラスがその上にのっかりながら下を見下して、どあほーどあほー、とわめきちらしとるときぐらいにしか注意が向くこともなく、とうてい多忙を極めるぼくら現代人の視界からはすでに消えうせているし、小生のいるベルリンでは地下に埋められてそんなものがあることすら忘れさられている。


電線1:横須賀市三春町

ところがこの「来日」中、道を歩きながら空を見上げると、電柱はともかくとして、視界に入るのはやたらめたらと電線、電線、電線。


電線2:横須賀市三春町


電線3:やはり横須賀市三春町

電線は現代の日常生活を構成するものの一部として1920年代から30年代にかけて構成主義者たちによって頻繁に被写体として取り上げられている。電線のような、普段みなれていてすでに日常生活の中では当たり前になりすぎて、もはやその視野の中で埋没しているようなものが、突如いつもとはまた別の方法で僕らの視野へと侵入してきて、その普段僕らがものをみている様を脅かす、そして、普段みていて別段注意もはらいものしないそのものがなにがしらおどろおどろしいものにうつる。その僕らの固定化された日々のものの見方に突如割り込むように現れる、普段の僕らのものの見方を大きく揺るがようなその仕方を、たとえるならば、ある種の知覚の地すべり現象のような再認識の仕方を、20世紀初頭のロシアのフォルマリストたちは異化(オストラニェーニエ)と呼んで、その時代の芸術や文学を説明する理論としてとりあげたけれど、その異化の度合いが大きければ大きいほど僕らの日常に与える効果、もとい、それを見るものに対して与えられる霊感は絶大なものになってゆく。普段電柱の間間をぶら下がってる電線がただぶら下がっているその仕方だけでなく、もしなんでかしらんけどバーンバーンいうて火花をたてていたら危ないかも知れんけど、見ている分にはさぞかし美しいには違いない。ものとみることに関わる想像力の問題なのでしょうか。と、写真の解像度はあまりよろしくないので、よいのは下記のアドレスから。明日かあさってにはアップしておきます。

http://picasaweb.google.com/kodoberlin

今年はこれでひゆーどろといたします。また自戒。来年。