シューマン‐子供の情景、クライスレリアーナ:マルタ・アルゲリッチ


大学時代の友人が結婚したっていうんで、チャットしていたFが、シューマンを聞きながら追憶、とふざけたことをぬかしたので、ああ、おまいさん、んじゃ、クライスレリアーナだな、そーなのよーっておっしゃられたので、部屋の隅で埃まみれになっていたこのCDを引きずりだして、今何年かぶりにこのCDを聞いている最中。確かに、その先ごろ結婚したっていう友人とは、このシューマンピアノ曲の思い出とは切り離せないかもしれない。
日本の大学時代は、その当時の担当教官だったK先生(まもなく東京郊外にあるとある国立大学の学長さんになるそうな)の研究室に友人たちとたまって、彼の部屋の本をあさったり、研究室のパソコンを勝手にいじったり(いまからだからいえるが、当時彼のホームページ制作をまかされていたので、彼が研究室にいるいない関係なく使いたい放題だったが)、もしくは、研究室のCDを聞きあさったりしていたのだが、その最近結婚したばかりの友人がいるといつもかかっていたのが、このCDだったのだ(はず)。
彼がシューマンばかり聞く理由を一度もたずねたことはなかったのだけれど、ドイツ・ロマン派の音楽が好きで、あー、いいよなー、シューマン、すげーいいよなー、とだけ言ってたのだけ覚えている。そういう彼も某有名広告代理店につとめる激務ながら、将来映画を撮る野望をいまだ捨てずにいまだシューマンをきいているのだろうか。それはともかく、そんな彼が、その研究室だろうが、彼の自宅の部屋だろうが、このCDをかけまくっていたためか(それとも他のロマン派の作曲家のCDかもしれないけれど)、どうも、あー、いいよなー、すげーいいよー、がこのCDを聞くたびに、おろか、他のロマン派の音楽を聴くたびに耳からはなれない。確かに、今聞いててもすごくいいのだけど、なんでいいのか答えようもない。まあ、音楽を聴くたびに、どこがいいから聴くなんていうことを、考えていたら、何も耳にはいってこない。だから、批評らしきものを書くことがここでは目的じゃないからね、と逃げます。
僕自身は、大学の2年生の終わりごろに彼と仲良くなるまでは、実はあまりドイツ・ロマン派の音楽はきくことはあまりなくて、高校時代からなんだが、生意気で、20世紀の音楽、つまりクラシック音楽では、現代ものとカテゴライズされるものしか聞いてこなかった。たまに、ロマン派を聞いても、耳あたりがいいだけで、なにがいいんだか、とぐらいにしか思ってなかったのだけれど、実際、ロマン派の音楽がいいな、と思ったのは、このCDを聞いてからかもいれない。シューマンだって、ピアノをやっていたときに弾いていたのかもしれないのだけれど、中学生の時にマーラーシェーンベルク、それから彼ら以降のぎーぎーがーがーひーぎーの現代音楽やテクノみたいなのにかぶれてからは聴こうともおもわなかったはずだ。ようするに小生意気なガキ特有の甘いもの嫌い、古いもの嫌いだったのである(例外は90年代の半ばから終わりにかけてスウェーディシュ・ポップがはやったときで、カーディガンズなんかをきいてきゃーきゃーいってたはずだ)。で、なんで、20代前半のその時期にシューマンのようなロマン派の、一言で言えば、美しいメロディーの音楽に走り出したのは、当時、失恋かなんかして、なにかメロウな(どうしようもないボキャブラリーの貧困)、ともかく美しい音楽を聴きたかったかなんかだったからだと思うが、それ以外に理由が思い当たらない。ともかく、クラシック音楽に関していうと、いろいろ幅広く聞くようになったのは、要するにこの友人と知り合ってからなのである。でまあ、それで、真っ先にいつも思いつくのが、このアルゲリッチシューマンというわけだ。
でも、ボキャブラリーの貧困だといいながら、このメロウという、なんともあらわしようのない雰囲気に浸ったって別にかまわしない、正しい音楽の聴き方なんて知らないし、あるのかどうかも疑わしいと僕は常日頃から思っている。実際、シューマンを聞きながら、正確にいうと、もう、6年も前になるのだけれど、そんな昔のことも思いだしてしまって、過去の思い出の感傷にひたってもいる。そして、その当時の仲間たちと、その例の結婚したばかりの友達の部屋のコタツにもぐってみかんを食べながらビールのんでくだらない話をしながら、当時撮ろうとしていた無謀無茶映画の打ち合わせでもしていたか、それとも、当時結成したばかりの思想系か文学系かなんかの研究会の打ち合わせかなんかでもしていたのか、当時おもっきり酒ものめず、他の仲間とは違って宵っ張りでなかった僕は夜中の3,4時になっても他が盛り上がってるそばでコタツのなかでもうすでに昇天状態になりつつあったのを思い出すのだが、そんなときでも、そばではシューマンをはじめとするドイツ・ロマン派の曲ばかりが流れてたような気がするのだ。
と、そんなよくありがちな思い出話をあえて口走って、ああはずかしいなー、とも思うのだが、その当時、僕らの仲間内でいいあってたのは、クリシェという覚えたての言葉だった。でも、いつもクリシェを言い走るのは、きまって僕だったのだ。どんなクリシェを連発してたのかは、思い出せないのだけれど(都合が悪いから忘れることにしてます)、そんなことも思い出しながら感傷にひたったあとにやってくるのは、いつも、あーあ、俺も年くったな、6年たったなあ、というくだらない過ぎ去りし時への後悔とどーしよーもないため息だけ。多分、こういう紋切りを連発するという点で、おそらく、昔の僕を知ってる人たちは、あーあ、こいつかわってねえな、と思われることかとおもいますが。
ひとつだけこのCDについて感想をいうなら、84年の録音で、CDのジャケットにあるとおり、弾いているのは若々しいアルゲリッチで、演奏も躍動感があっていい。昔、最初高校生のころぐらいに、この曲を初めてきいたのは、ヴィルヘルム・ケンプの演奏だったと思うけれど、どうにも、やっぱり、このアルゲリッチのCDとは対極にあるような、重い足取りで老大家の弾き方だなー、というような演奏だった。で、当時すでにゲンダイ音楽にどっぷりだった僕が、そういう演奏をきいてシューマンがすきになるわけがない。そんなわけで、シューマンとかシューベルトとかでも、ずっと聞かないままだったんだろうけど、突如趣味がかわったというか、それからというものの、急にロマン派にひかれるようになってしまった。だから、6年前の僕がこの甘くも若々しい演奏にメロメロになったように、そして、今、過去のことに感傷的になるためにも、このアルゲリッチの演奏はいいと思う。あー、でも、そういえば、ここまでいろいろ書き下してしまったいまになって思うのだが、やつが、あーすげーいいよーって聴いてたのはポリーニがひいてた交響的練習曲かもしれへん。けど、もうやっぱどっちでもいいですわ、ははは。アルゲリッチが弾いたシューマンもこうやって聞くようになったのは間違いなく、この友人の影響下で、そして、この時期だったわけだし。そんなこともあって、ロマン派の音楽はいまでもそうよく聞くわけではないけれど、シューマンピアノ曲弦楽四重奏曲は夜ぼんやりとしたいときによくかけてる。とまあ、友人の結婚の話からアルゲリッチシューマンのCDにまつわる小話ではありましたが。

というわけで今日の一枚はこれでおしまい。と話はかわってまたしてもサッカー。またしてもニュルンベルク

ところで、おとついのDFB杯(ドイツサッカー協会杯)のニュルンベルク対ハノファーの試合。どうにもこうにもぱっとしない試合のまま、120分まで1分のところで、目を疑うような交代劇がおこりました。なんと、ニュルンベルクのマイヤー監督が、これまでほぼ120分間ゴールを守ってきたシェーファーにかえて、第二キーパーのクレヴァーを投入。うわー、なんでやー、と思いましたが、彼はPK戦のスペシャリスト、このDFB杯の前のラウンドの、同様に、PK戦までもつれこんだウンターハッキング戦、4本をとめる神業を見せたというわけで、PK戦突入が疑いようのない最後の一分でハンス・マイヤーは、クレヴァーを満を持して投入したというわけです。結局、クレヴァーは2本をとめて4−2での準決勝進出に貢献。なんたること・・・。
でもそういうキーパーがなぜ試合にでれないか。レギュラーのシェーファー自身も優れたキーパであることもありますが、そのシェーファーは来シーズンからシュトゥットガルトに、ほぼ今シーズン末を去ることが既定事項となっているティモ・ヒルデブラント(ヴァレンシアにいくという話ばかり聞きますが、当地ではすでに正GKのカニサレスが契約を延長したとも聞きますが)の後釜として移籍することが決まっています。ニュルンベルクは、スパルタ・プラハチェコ代表のナンバー2のヤロミール・ブラツェックを獲得することが既定路線の模様。それを前にして、来シーズンの正キーパー争いに早くもこのクレヴァーを、マイヤーは参戦させるつもりなのでしょうか。それが、選手に自身を植え付ける、昨シーズン以来の彼なりのチームマネージメントなら、なかなかというべきものでもありますが。
PK戦でのクレヴァーの活躍はともかく、相変わらず守備はよくても点がとれないニュルンベルク。前が奮起しないことには、これ以上の上位は望めないだけに、得点力不足解消にも腕をみせてもらいたいところですが。
次回以降こそは京都サンガとVfBについておおいに盛り上がっていきたいと思いますが(笑)。
ではまた次回。