学期前放浪2008年春 ルーマニア・モルドヴァ編 (1;入国にひと悶着

前ぶりが長すぎたけれど、ルーマニアモルドヴァの旅について今日からはじめることにします。

その前に夏学期のはじまったベルリンからの一枚。フンボルト大学の本校舎の中庭にて。


今月頭の予告編にもあったとおり、Swoodooなる格安航空券検索サイトのおかげで見つけたBlueairなる格安航空会社のブカレスト行きの航空券を予約した小生は、出発の2日前に予約したにもかかわらず70ユーロというその値段の安さ(70ユーロ)というよりも、そのBlueairなる航空会社の存在自体についてなんの知識もなく、どんな航空会社かもその時点では疑わしかったので、不安で仕方がなく、予約して先方からも確定のメールを受け取ってからも、グーグルったりウィキペディアをのぞいたりしたのだけれど、シェーネフェルト空港Flughafen Schoenefeldのホームページをみて、とりあえず、Blueairのブカレスト行きなる便はちゃんと発着案内にあるのをみてはじめて、まあこれなら間違いない、と安心して、というよりも変に自分を納得させて、4月7日朝8時シェーネフェルト空港方面行きのレギオナール・エクスプレスRegional Expressに乗り込んだのでありました。


こうしてついたシェーネフェルト空港は、しかしながら、毎度のことながら、地の果てにふさわしいような場所にある空港で、駅に着いて無駄に長く暗い地下通路をえんえんと歩きながら、けっ、おいどんはいったいどこへいこうとしとんねん、と思うのだが、こういうロケーションのことをドイツ語でAm Arsch der Welt(直訳すると「世界のケツ」、要するにくそったれた場所というぐらいの意味)というのだけれど、周りにはなんにもないし、加えて駅もまったくそっけない。
2004年にEasyjetイングランド、ベルリンなどがベースのヨーロッパで一二を争う規模の格安航空会社)がこの空港に就航して以来、格安航空会社が発着料の安いこの空港をベースにするようになってからは、この空港も変わり続けている。大量の観光客がベルリンに押し寄せている昨今、特に格安で夜遊びできるベルリンが目当てのEasyjettouristenが大量に押し寄せるようになって以来、かつてをしる人にいわせてみれば、この空港もそのそばにある駅も格段にきれいになり、かつ空港の建物自体が明るくなって、「空港」らしくなったともいうが、「空港」らしくなってというのは、いつも思うのだが、どーいう意味なのじゃ、と思わないでもない。というのは、かつてのシェーネフェルトも旧共産圏の空港だった例にもれず、刑務所の待合室のようなどよーっとした場所で出入国手続きをして「いただいて」、とっとと帰りやがれ、資本主義の犬どもめ、みたいな感じで追い払われるような場所だったとのことだ。シェーネフェルト空港はかつての旧東ベルリンのメインの空港で、西ベルリンにあるティーゲル空港Flughafen Tegelは、いまでも市内へのアクセスのよさから、主要な航空会社はすべてこの空港発着なのだけれど、ドイツが再統一されてからしばらくはこのシェーネフェルト空港からは旧共産圏への便が中心に発着していたわけで、ようするこの空港は、すくなくとも、数年前までは、ご歓迎されたり、名残惜しくお見送りされるようなような場所ではまったくなかったわけだ。
駅のホームはともかくこの駅の地下通路は、どこぞやの東欧の駅の暗くじめじめした通路を想起させて、しかも、しかも無駄に幅広くてガランとしている。駅舎も統一後のドイツにあっては国の重要文化財にしてされてもいいぐらいの年代ものの鉄筋立て、申し訳程度ガラス張り、いまでもかつての共産圏のど田舎にいけばあるようなどこにでもあるような味も素っ気もない建物で、時代を感じさせてくれる。まあ、ここでもベルリンが経験した激動の20世紀の余韻に少なからず浸れるわけで、半分浮かれ気分でやってきたパーティー目的のEasyjettouristenにとっては、いきなりのベルリンでの洗礼にもってこいなのだが。
しかし、それでも、市内まで直通列車で40分いけるというのは、ほかのヨーロッパの大都市の空港と比較しても、格段便が悪いというわけでもなく、成田や関空の立地の最悪さからすればましもまし、最近値上げしたけれど、3ユーロもかからずに市内にいけることに対しては普通の観光客にとってはなんの文句もないし、S-Bahnでたかだか同様に30分ほどにあるミュンヘン空港に向かったとき、たったそれだけの距離に8ユーロもふんだくられて、ミュンヘンでの数日間まったく面白くない体験ばかりして怒り心頭であった小生はこの8ユーロの法外な運賃に二度とミュンヘンくんだりにはいくまい、と固く決心した記憶もあるほどだ。成田や関空なんぞはそこいくだけで小旅行なわけで、ベルリンの空港は場所の違いはあれば、市内へのアクセスのよさに関してはなんのケチつけようがないと思うのは果たして小生だけだろうか。日本からの長旅を終えてティーゲルについてからわずか30分で家の敷居をまたげるというのは決して悪くはないといつも思う、特に日本について家につくまでがひと旅行なのと比べて。

まあ、そんな感じでシェーネフェルド空港のターミナルビルにはいれば、小生が向かうべきチェックインカウンターのまわりにはほかの乗客の影もない。とりあえず、カウンターに向かえば、向こうはようやくきおったーかーこいつーみたいな顔をしおる。しかも、「あんたが最後」とのだめだしのおまけつき。小生はいつも出発時刻ぎりぎりにチェックインする航空会社にとってはいつもうっとおしい客なのだ。いつもいわれたとおりの40分前には、必ずチェックインしているのに。しかし、チェックイン締め切り間際だというのに、ほかの客はどこなのじゃーとおもわず見回してしまうほど、このBlueairブカレスト行きのカウンターの周りにはほかの乗客の影もない。そうこうしているうちに搭乗手続きも終わり手荷物検査も無事通り過ぎて出国手続きへとむかう。指定されたゲートの前にはパスポートチェックのブースがあって、担当のオマワリさんが暇そうにブースの中でひじをついて待っている。その向こうには、すでに同じ便に乗ると思わしき乗客がぼーって待っている。典型的な空港の待合の風景。ルーマニアEUに去年の一月から加盟しているけれど、まだシェンゲン条約にまだ加盟していない、というよりさせてもらえないため、とはいえ、ルーマニア人はすでに独逸人同様身分証の提示だけで事足りるが、小生のようにEU国籍でない人間はここで一応シェンゲン外への出国手続きをしなければならない。
ともかくパスポートを出す。パスポートを機械に通したオマワリさんはジーと小生の管理情報が表示されているはずのモニターをみつめる。そして、しばらくパスポートをぱらぱらとめくったあと、おそらく小生の最近更新した最新のビザがはってあるとおもわしきページのあたりで手をとめて、そのページをしばらく眺めたあと、パスポートを返しながら小生に渡航目的を尋ねる。

おまわりさん;「ルーマニアはどういう目的で?」
小生;「いやー観光です、二回目ですわー、めっちゃきにいってますねん」
おまわりさん;「あーそうですかー、いいですねー、学生さんやしねー、ほんなら夏学期始まるまでの旅行やねー、ほんなら楽しんできてやー」
小生;「あーどーもー、いってきまーす」

と別に書く必要もないぐらいたわいもない会話をして、バリバリのベルリン訛りの、しかし、ベルリンにしては非常に愛想のいいおまわりさんにさよならをいって小生も待合場にはいるが、そこでびっくり、待合場にいる人はどうみてもドイツ人にはみえない人ばかりで、それどころか皆無、そんな中にアジア人である小生がくるもんだから、注目の的である。ルーマニアと同じである。みんなルーマニア人たちはベルリンみやげやらいろいろもっているが、やっぱり独逸資本の安いスーパーマーケットの袋をところどころぶら下げている(これこそが中東欧を旅行する際のつぼのひとつである)。そして、すでにばりばりルーマニア語が飛び交っている。おお、もうここはルーマニアじゃあ、と小生のテンションはすでにルーマニアモードへと切り替わりつつある。
しかしながら、よく考えると、この時期にベルリナーもとい独逸人が観光でブカレストにいくとはちょいとやはり考えられない。ベルリンでも、ルーマニア、そんなくそったれた場所によーいったな、という反応は去年の10月に帰ってきてからもざらだったし、小生はそんな無知なベルリナーもとい独逸人に対して啓蒙活動を繰り広げたのだが、南の島が大好きな独逸人がルーマニアに喜び勇んでいくようなことはまれである。少しでもベルリンでもこの航空会社の知名度があがって、ルーマニアがベルリナーにとってポピュラーにならんと、週三回の運行が、二回に一回に、そして、休止なんてこともありうるわけだ。ルーマニアという国がベルリンについで大好きな場所になりつつある小生にとっては、それはぶっちゃけ、いまや「死活問題」である。
とはいえ、おもいもかけずベルリンですでにルーマニアモードにきりかかりつつある小生のテンションはぐんぐん上昇。とるものもとりあえず、まあ落ち着け落ち着けと、おもむろに持ち合い場のベンチにすわって新聞を広げようとするやいなや、搭乗案内がながれれば、すでに出発の時、意気揚々と機上の人となる。
ところがまあ、搭乗した飛行機はこれまた年代もののエアバス機である。すわったシートの二つ隣の折りたたみテーブルはささえる右側の腕の金具がとれてぶらさがっているではないか。ていうか、おめえらなおせよ、と、Blueair、この航空会社は大丈夫か、と心配になる小生である。トイレにいけば、耳をつんざくような音がして「したもの」が「吸い込まれていく」トイレではないのだ、いまだに洗浄液が「したもの」と一緒に流れていく古くさーいトイレなのである。まあ、それでも今ブカレストからやってきたばかりだとかで、そは杞憂である、と無理やり納得させて、6時に早起きした上、しかも、旅の前日も友人宅でのんだくれていて1時ぐらいに帰宅してから、いつもどおり出発日の前日の夜遅くに荷物をバックパックに突っ込んでから寝た小生は、離陸をするやいなや、ルーマニア人だらけの、しかし空席も多い年代のエアバス機のシートで3席を占領して、横になってすでに爆睡。しばらくして、目が覚めると、眼下にはぽつぽつとすでにバルカンらしき田園風景が広がっている。と思うと、どうにもこうにも見慣れた形の、かつてグーグルアースで盛んに偵察した街と良く似た風景が見えて(あとで確認するとやはりシビウSibiuだった)、あっという間に彼方に去っていったら、雪をかぶった山が前方から現れる。これはカルパティア山脈だなと。と、おもっていればまもなくブカレスト着陸とのアナウンスである。はええな、やっぱり飛行機は、と6ヶ月ぶりのブカレスト帰還の感傷にひたる間もなく、あっという間に、やっぱり、拍手のなかの着陸でありました。そんな信用ないんか。そらそやわな、生還できたわけやからなあ、うれしいなあ、はい。
しっかし、着陸したブカレストはバネアーザBaneasa空港もシェーネフェルト空港の上をゆくしょぼい空港で、前回去年の10月帰国の途についたオトペニOtopeni空港よりも格段に貧相なのだ。しかも、小生らが乗った飛行機はターミナルビルのどまん前にとまったのはいいが、乗客は、タラップをおりて、バスに迎えられるでもなく、歩いてターミナルビル入りである。ははん、これはよいの、どこかの日本の地方空港みたいだ、と迎え入れられたターミナルビルはシェーネフェルドと比べても、建物の古さとガタの来具合では遥か上をいっていたが、建物が格段に明るい上、すでにブカレストは初夏の陽気と気温ゆえ、気分はわるくなく、ついにはるばるもどってきたぜい、るーみーにあー、とテンションも再びぐんぐん上昇、ほかの乗客に混じって入国手続きをうける列に並ぶ。やっと小生の順番がまわってきてパスポートをだせば、係りのお姉ちゃんはニコニコしながら、ハーイと、独逸人の女子とくらべて愛想がいいどころではない。

ところが、小生のパスを機械に通して、なんの問題もなくスタンプをおして、ラ・レヴェデーレーLa revedere(ルーマニア語でさよならー)とお別れのはずが、パスポートのページをなんどもめくりかえして、この係りのお姉ちゃんはかわいい顔をしかめながら首をふっているではないか。なにか問題?と英語で尋ねると、ちょっとまって、との返事。二回ほどパスポートのページをすみからすみまでめくって、お姉ちゃんはいうではないか。

係りのお姉ちゃん;「前回ルーマニアにはいつ滞在したの?」
小生;「えー10月上旬やけど、なにか問題でも?独逸に住んでるんだが、ヴィザもあるでしょ。」
係りのお姉ちゃん;「それはいいんだけど、前回ルーマニアを出国したのはいつ?」
小生;「えーと、確か丸2週間いたはずだから、10月1日にオラデアから入国して、ということは、10月15日だね、出国は。」
係りのお姉ちゃん;「スタンプを見た限りそうね。で、どこから出国したの?」
小生;「ブカレストやで、この空港やなくてOtopeni空港やったけど。なんで?」
係りのお姉ちゃん;「問題はね、あなたのパスポートに前回の出国のスタンプがみあたらないのよ。なんでないわけ?」
小生;「ないけど、それは確か前回出国直後にみたら搭乗券にだけ押してパスポートには押さなかったみたいなんやが、出国直後にパスポートにスタンプがなかったんで、不思議におもとったから、よく覚えてる。でも、それが問題なわけ?」
係りのお姉ちゃん;「前回出国の事実が確認できない限り入国させるわけにはいかないのよ。あなたが飛行機にのって独逸に帰ったという事実がこのパスポートだけでは確認できないわけだから。」

ほほう、この係りのお姉ちゃんはかわいい顔をして、なんと残酷なことをいうではないか。この時点で、もはや初夏のブカレストの気候のせいではなく、ベルリンへの強制送還の可能性を目の前にして小生はかなり汗を背中にかきはじめている。まわりにはもうすでに当然のことながらほかの乗客はひとりもおらず、それどころか、入国手続き上のブースの横から目をやると、手荷物受け取り場のターンテーブルの上では、小生のリュックだけが孤独に回り続けている。その横では、しかめっつらをした係員の兄ちゃんがこれはお前のリュックか、みたいな目つきで俺を見ているのが見える。兄ちゃんが、これ、お前のか、とついに小生に声をかけると係りのお姉ちゃんは、とりあえず、その荷物をうけとってきて、という。そして、そしたら戻ってきて、と。小生のリュックをターンテーブルから引きずるように受け取ると、再び、係りのお姉ちゃんがまた質問を続ける。

係りのお姉ちゃん;「とりあえずこれが私の仕事だから悪くおもわないでほしいけど、もう一度聞くわよ、なんで、スタンプがないわけ?それがないと、独逸に帰る飛行機にのらないでどっかにいったんじゃないか、といわれてもしょうがないのよ。」
小生;「もちろんやっていってるやんか。それは、オトペニのあんたの同僚が搭乗券にスタンプをおしただけで、パスポートには押さなかったんだって。だいたい、僕は12月21日に日本に帰ってるし、それだけでもルーマニアに3ヶ月以上いてないという証明になるやん。その横にも前日にイタリアで出国したというスタンプがあるし、先々週独逸でヴィザを2年間延長しているのもみれば大体わかるでしょう。それだけでも十分やん。」

と小生がちょいと興奮気味に話すと、係りのお姉ちゃん横には上司らしきおばちゃんがいて、確かにそうね、見たいな感じで二人でうなづいている。そして、しばらくパスポートのほかのページをめくって、上司らしきおばちゃんがなにかをルーマニア語でお姉ちゃんにいうと、ダー、ダー、とうなづきながらお姉ちゃんは電話をとりながら小生にこういう。

係りのお姉ちゃん;「とりあえず、あなたがちゃんと出国したかどうか問い合わせるから、もうちょっと待ってて。ノーパニックよ。」

ふー。向こうはちゃんと仕事をしようとしているわけだから、それに大していうことは別段ないし、がたがた理不尽ないちゃもんをつけているわけでもないので、ただ時間がかかるだけでわずらわしい。前回の出国の時にスタンプがないというだけで、押さなかった係り官のミスということなのだろうけれど、とんだとばっちりだ。係りのお姉ちゃんは受話器にごし小生の名前とパスポートの番号を伝えて受話器をおくと、ふう、とため息をついたあと、こちらをみて、再び最初の時と同じように笑顔で、ジャストモーメントよ、となぜかVサイン。タバコに火をつけて一服すると、小生を見てこう続ける。

係りのお姉ちゃん;「ルーマニアは気に入ったの?二回目だってことだけど。」
小生;「この6ヶ月間ずっとまた来たいとおもってたよ。」

とこちらもVサインで応える。と係りのお姉ちゃんはそれに対していうではないか。

「へー、あんたここに彼女でもいるわけ?」

なんでやねん。前回10月旅行した時も、どこへいっても、ガキんちょからおばあちゃんにまで同じことを聞かれまくったが、入国審査場の警察官のお姉ちゃんにそういわれるぐらい、ここに来るやつはそんなに女目的が多いのか、ていうか、日本人にそんなやつが多いのか、どっちなのか・・・。確かに、独逸女ども、特にベルリンの女どもにつめの垢煎じて飲ませてやりたいぐらいルーマニア人の女の子はかわいいし人あたりも非常にソフトだ。おまけに、小生のストライクゾーンにどかーんなのだ、ラテンでかつ東ヨーロッパ的というのは。

小生;「ま、そうであればええけどね。それはともかくこの国はめっちゃ気にいっとるんよ。」
係りのお姉ちゃん;「そーなのー、それなら大歓迎よ、あははは。どこへいくの、今回は?」

小生は今回はブコヴィナとモルドヴァにいくんだというと、係りのお姉ちゃんも、あそこはきれいなところよ、とうなづく。モルドヴァは?と聞くと、いったことないわ、よくわからない、なんであんなところへ、と、すると、再び電話がなる。電話が鳴ると同時に係りのお姉ちゃんはさっと受話器に手をのばして、ダー?と答える。ひとしきりうなづいたあとで、係りのお姉ちゃんは僕の方をみて再びVサイン。受話器を置くと、その勢いで、小生のパスポートにおもむろにスタンプをボーンと押す。そしてパスポートに押された入国スタンプをみせながら、

係りのお姉ちゃん;「よかったわねー、入国できるわよ、でも、次回出国するときは、絶対にスタンプもらうのを忘れないようにねー。
次回入国するときには、あたしみたいに親切でやさしいポリースがいるとは限らないわよー。あははは。

係りのお姉ちゃんの乗りのよさに小生は苦笑しながらもルーマニアへ無事カムバックを果たすことができてハッピーだったのはいうまでもない。

では今宵はこれまで。また自戒。

ファック・オフ、アメリカ!


http://www.flickr.com/photos/jedentagberlin/2397708806/より引用、Danke!そのほかの写真はここから。えげつないが。)

最近、といっても、旅行の前なんで、もう3週間ほど前の話になるのだけれど、ベルリンはローザ・ルクセンブルク広場Rosa-Luxemburg-PlatzのフォルクスビューネVolksbuehneで、Fuck off, Amerikaエドゥアルド・リモーノフEduard Limonowが1979年に書いた自伝Fuck off, Amerika、原題«Это я, Эдичка エタ、ヤー。エジーチカ。»をもとにフランク・カストルフFrank Castorfが演出)をみたのだが、今日はこの演劇についてのお話。昨日書いた故郷へのノスタルジーという話の少し続きになるのだけれど、この演劇にまつわるある種のノスタルジアのほうが、小生の感傷などばかげているほど、根が深い(ちなみに、邦題は、「俺じゃ、エディーじゃあ」にしておこう、ちなみに小生の尊敬するロシア文学者のひとりである沼野充義御大は「おれはエージチカ」と訳しておいででしたが・・・作品の詳細は沼野御大の解説を御覧あれ)。
この演劇がネタにするのは、当時のソ連で、人民の敵扱いされ、半ば追放される形で、自由の国アメリカにきた、かなり自意識過剰な「俺様」のお話、つまり、リモーノフの、おそらくフィクションも多分に混ざった半自伝。自由の国「あめーりか」にやってきたものの、ここのものはなにからなにまで自分にあわないし、ろくな仕事はないし、故郷ではちょいとアングラなシーンで有名になりかけて女の子にももてもてだった新進作家でも、自由の国「あめーりか」では全くの無名で誰にも興味もはらってもらえず、敵国ソ連から野良犬のようにやってきたただの一亡命者でしかなく、アメリカでは誰も文学なんか読みやしない現実にとほほなありさまで、一方で、当地のロシア人コミュニティーの中でも、なんじゃあいつは、と際物変人扱いで、亡命して自由を満喫する予定だったのだけれど、結局、現実は全くの逆で、故郷にもかえれず、亡命したアメリカを故郷とみなすことなんか到底できっこなく、どんづまりの状況でしかなくて、やっぱり、英語もろくずっぽ話せないで、似たような境遇の他の亡命者たちと、真昼間から酔っ払うしかなく、そんでもって、故郷からつれてきた美人の嫁さんにも逃げられるわ、やけになって、黒人の野郎と寝てしまう、てな感じで、全くベルリンでもどこでも移民や亡命者にありがちでよく見かけるパターン。


めっちゃパンクなおっさんやねんけど(Wikipediaより引用)


20世紀は、特に、戦間期から第二次大戦後にかけて、かつてなかったほどの地球的な規模で、人、物、政治、文化をめぐるあらゆる状況がシャッフルされて、その中で、大量の移民の波や亡命者の群れを生んでいった世紀だった。この大量の移民や亡命者の群れの中から、当然のごとく、亡命者文学、というジャンル付けされるほど(ていうかそんな定義はあるのか?)の多くの、亡命者たちによる文学がうみだされてきたが、ソ連からも、例に漏れず、政治的理由で祖国を追われた作家たちが、数々の作品が生残している。そのようなソ連を追われたロシア人作家のうちにリモーノフももちろん数えられるのだが、そんな作家の中にもやっぱりいろいろいる。その中で有名なのは、たとえば、ノーベル賞を受賞したソルジェニーチンやブロツキーだろうけれど、リモーノフはこの二人ともやはり違う。
前者は、彼らが亡命に追い込まれる前に、すでにソ連でも指折りの作家であり教養人として扱われていた。だからこそ、後にノーベル賞を受賞するほど、亡命後、国際的な名声を得ることができたのだけれど、後者、リモーノフは、亡命する前は、やはりそういう「作家先生」ではなかった。彼が明らかにしているとおり、リモーノフは本当の無産階級(いつの言葉だ?)出身で、餓鬼んちょのころは盗みや空き巣を繰り返して生きていたとかで、繰り返し豚箱ぶち込まれて出てはの繰り返してから、作家活動を開始したとかで、作家になるまでの過程だけをみるなら、まったくジャン・ジュネのようなのだけれど、当時のソ連は、そういうろくでなしに対して、寛容な場所なわけもなく、半ば追放されるようにアメリカへの亡命に追い込まれるのだが、こうしてアメリカにやってきた直後は、彼が書いた半自伝にあるとおり、相当自堕落な生活をおくっていたらしい。


ドイツ語版「エタ、ヤー。エジーチカ。」Eduard Limonow: Fuck off, Amerika; Kiepenheuer & Witsch


ところが、79年にアメリカで出版されたこのЭто я, Эдичка(「俺じゃ、エディーじゃあ」、ドイツ語では「Fuck off, Amerika」で出版されている)がヒットすると、世界中で瞬く間に翻訳されて、彼自身世界的に有名になる。ちなみに、日本語ではいまだにリモーノフの作品は出版されていないのだが、沼野御大が「徹夜の塊 亡命文学論」(作品社)でリモーノフの作品をふくめたその時代のロシア人の亡命文学について詳細に書いておられるので、興味のあるかたは当書を御覧あれ。
ところが、リモーノフは、ペレストロイカの後、ソ連が崩壊すると、とっととモスクワに帰ってしまう。そこで彼は国家ボリシェビキ党Национал-большевистская партияなる、という要するにソ連のネオナチ組織をつくって、「毎日が冒険の現実へ御招待」みたいなことをほざいて、極右のかなりパンクな作家先生として名をはせることに。しかも、爆発物違法所持みないな容疑で、最近まで3年近く刑務所にほうりこまれていたらしいのだが、でてきてもやはりあいかわらずだとか。

まあ、彼の原作を読めばわかるのだけれど、作品には、そんな状況をわらいとばすほど自らを戯画化して自伝にしてしまう滑稽さと奇妙さが同居している。しかし、リモーノフのこの作品に特有なのは、ただ故郷へのノスタルジアを哀愁をこめて語るという手段にはうったえず、ロシアもアメリカもどっちもくそったれだ、といういってはばからないところだ。そうして、自らを意図的に袋小路へと、「日常」の淵へと、追い詰める。そうすことによって、作品自らに唯一無二の強度を付与しようとするのだが、同時にそこに垣間見るのは、そう書かざるをえなかった、リモーノフ、作家自身のどうしようもない弱さである。社会の袋小路にぎりぎりに追い込まれた自らを道化とみなして戯画化することで、逆説的に文学作品としての強度を作品自体に与えることはこうして可能になるけれど、同時に自らを道化とみなすことそのこと自体についてふれるということ、このことは、自らのどうしようもなさ、弱さ、そして、この作品にあるのは、故郷ロシアを遠くはなれて、希望を抱いてやってきた「自由の国あみぇーりか」でのくそったれた生活の中では、いくばくかましであったはずの、かつての故郷での時間、も遥か彼方のことであって、もうほとんど取り返しのつかないという状態にあるという、どうしようもない底なしの悲しみと、時には、絶望と隣り合わせであるということ以外にはやはりありえない。

とはいえ、帰国後のパンクな極右と化したリモーノフをみていると、また、カストルフによって、そんなノスタルジーなど表面的には感じさせないほど異化されまくった舞台をみていると、僕がいっていること自体が少しあほらしくなったりもするんやが、ところが、僕がフォルクスビューネで見たカストルフ演出の演劇の最後のシーンをみて、少し笑えなくなってしまった。その最後のシーン。宇宙船らしきカプセル、昔ドラゴンボールにでてきたようなタイムマシーンのようなカプセルに主人公が無理やり乗せられて、ピカピカ光るカプセル宇宙船のような物体の中で、うぎゃー、と絶叫して舞台に幕、それで、暗転した舞台の中で、カプセルがピカピカ光ってて、こちらは思わず大爆笑してしまった。とはいえ、これは後から思ったのだけれど、実際にはまったく笑えない話だ。というのは、こうやって、宇宙以外にこんなちっぽけなカプセルに乗せられて飛んでいく以外にいくところが俺にはねええんだ、といってるようなもんで、これは究極の自己戯画、イロニーの極地。

そういう意味では、昨今のロシアでのリモーノフも、こういう滑稽さを超越して、こうやって、どこかへとんでいきかねない過激さは相変わらずなのだろう。よくよく考えれば、冷戦後の、特に90年代のロシアという場所は、特にソヴィエト崩壊後のあの混乱の中では、僕ら西側世界の人間にとってみれば、ソ連時代にまして、かなりくそったれた世界だったわけで、仮にアメリカがリモーノフにとって、Fuck offといいたくなるような場所であったとしても、作家として名を成した今や、望めば安堵としていられたはずのアメリカという「パラダイス」をあえて飛び出していくということは、フォルクスビューネのカストルフの演出の中の最後のシーンのように、それこそ漆黒の宇宙ヘ、「毎日が冒険」であるような世界へ飛び出していくこと、一方で、再び毎日がくそったれた世界への帰還以外にやはりありえないはずなのだ。実際、90年代のロシアが、そして現在のロシアがどういうところかということを、僕ら、西側世界の側から想像すれば、さもありなん、リモーノフ自身も、アメリカもロシアも似たり寄ったりのくそったれた場所だ、ということを自伝の中でも繰り返している。
そんななかで、ナショナル・ボルシェビキなるネオナチまがいの時代錯誤な行うこと自体は、もちろん、僕らの目には破格にうつるけれど、それは「毎日が冒険」であるようなソヴィエト連邦崩壊直後のロシアという「日常」ならぬ「非日常」ような場所を生き抜くためのごく自然な知恵であり戦略のひとつであったはずなのだ。
でも、今のロシアが行き着こうとする状況を目をやれば、プーチンあるいは形だけのポストプーチン体制の現在のロシアには、やはり、そこで彼らの彼らなりの破格さを永久永劫保障してくれる「非日常」などはやはりない。それどころか、クソだといいつつも、長い間恋焦がれて、やっとのことで帰り着いた祖国で、よりによってかつてのソ連時代のような半鎖国状態へと逆戻りしつつあるようなロシアで、三度際物扱いされるどころか、反社会的反国家的として非合法化(リモーノフの国家ボリシェヴィキ党はロシアでももちろん非合法)されてしまう現実が、彼らの破格さ、今にも世界の外へと飛び出していきかねない過激さとそして、どこの現実と日常にも属することのできない根無し草な様、を逆説的に語ることになる。リモーノフが逆説的に焦がれるような「非日常」なるパラダイスなんてものは、やはり、どこにもない。
自らを滑稽な道化として表現することは、時には、どうすることもできない哀愁さをおびるし、やはり、自らがどこに属することのできないという悲しみやどこかへ自らが帰り行けるような場所への憧憬をどこかにちらつかせることになるのだけれど、どこへいっても、アウトサイダー扱いされてしまうというこの現実、しかし、平凡な「日常」を生き延びる上で、アウトサイダーたることを戦略的に選び取ろうとすることは、究極の選択肢としては存在する。僕らは時に、その平凡な「日常」に我慢ならないときもあるわけだから。だが、そこで根無し草であろうとすること、あるいは、アウトサイダーたることを戦略的に選び取って、社会から際物の烙印を押されることになる現実に耐えうるには相当の強度が自らに要求されることになることを忘れてはいけない。そんなことは誰にでもできるというものではない。むしろ、そんなことを選び取っても無為にすぎるような「世界」にいるし、そうした「日常」から逃れるすべなどはほとんどないに等しいのだ。それについて語ろうとした文学作品はいくらでもある、サドにはじまって、ロートレアモンセリーヌ、ゴンブロービッチ、ヘンリー・ミラー、ジュネ、バロウズ、トーマス・ベルンハルトなどなど。しかし、そんなことを現実に試せるわけではない。彼らの語る事柄は、やはりフィクションであり、文学作品なのだ。
それでも、それは、いままで語ってきたような本来自らが所属すべき共同体や社会に対するノスタルジーなる感情を、そして、さらにそれを乗り越えるための自己戯画とそこに現れる弱さなるものを逆説的にさらに乗り越えていこうとするような力業なのだろう、それは、この「世界」を生き延びる上でのひとつの究極的な戦略であるともいえるだろう。ヴィトゲンシュタインが、「論理哲学論考」執筆後の長きにわたる沈黙を破って、1928年のケンブリッチでの倫理学講義で語ったような、この僕らの日常を支配する倫理や言語、すなわち、世界の限界である「壁に限りなくぶつかり続けること」、比較しえるような、むしろ、ヴィトゲンシュタインがいうよりもよりラディカルな様なのかもしれない(ヴィトゲンシュタインは、むしろ、そこでは、常にその壁の前でためらっているようにもみえる)。こうしてみずからを道化として振舞わせるさまやFuck offとわめき散らす様は一見軽そうに滑稽にうつる。しかし、それは、見かけとは逆にとてつもなく重いのだ、その個々人の、常に「壁」に跳ね返されてしまうような存在の軽さと比較して。それは、「存在の耐えられない軽さ」を語る、あのフランスに亡命したチェコ人の作家の身振りとは、語られる内容とは別にではあるけど、比較の仕様がないほどとてつもなく重い。
自らのあるべき生の空間からの追放劇、それこそが、20世紀という時代に何度も繰り返された悲劇なのだ。そのこと自体は、とてつもなく重い、そして、その中にある「生」は、そのあるひとつの「生」の場所から追い出された事実に比して、とてつもなく軽過ぎ、些細なものとして扱われない。リモーノフがこの世界にぶちまけた呪詛の念といま自身のいる「生」の彼方を思うこと心は、何千数万といたはずの、無名のリモーノフたちの存在ゆえに、とてつもなく重く現れる。そこで現れるノスタルジアという、あるべき自分の「生」の場所への、そしてその場所で幸せであったはずの過去、そしてそれより過ぎ去った時間、それに対する情念が、ここではコレクティヴなものとして現れる。リモーノフの自伝は、その何千何万とあったはずのひとつの例なのだ。
だからこそ、それは、僕らにとってはやはり破格なのだ。なによりも、誰も口にしない現実の核心をつくからこそ。誰も彼もがリモーノフのように振舞ったのではないし、振舞うわけではない。むしろ、そう振舞うことは、それはひとつの社会的な、自らの属する「日常」においては不可能に近いし、その「日常」でのひとつの生の放棄に比肩すべきことがらに他ならない。そんなことは不可能なのだ、誰もできない。そのことは、僕らの生そのものが、そう振舞うように決められた一定の枠内以外にあることは、到底ままならないという事実を如実にかたっている。文学作品がかたる破格な生とは、僕らが生を営むところとはまた別のどこか別の場所にあるひとつの生なのだ。それを模倣したところで、ただの茶番に過ぎない。むしろ、そう振舞わざるを得ない現実に僕らの生はあるということ。そこ以外に僕らの生が向かうところはないし、それ以上に行き場はないということなのだ。無論、あるひとつの生の中にとどまることができるということは本来幸せなことなのだろう。それゆえ、ここでの僕の語り口とは、やはり自らの生が今いる場所において、幸福であるということのひとつの証差であるともいえるのだが・・・。

ところで、いままで語ってきたテーマとは直接は関係はないのだけれど、リモーノフのみならず戦間期から戦後にかけて中東欧からアメリカにわたってきた大量の移民や亡命者の中には、アメリカの宇宙開発に携わった科学者の中もたくさん含まれていたわけで、その中には、リモーノフがアメリカにやってきたときのようなシチュエーションに追い込まれたりした人たちもいたのだろうな、そして、もはや宇宙以外にめざすところがない、というような・・・、ということをふと思ったりもした。それは、確かに、深読みが過ぎるのかもしれない。だが、いまいったような移民と亡命者の群れこそが、戦後のアメリカという場所、古い世界であるヨーロッパに対する強力な磁場を発する場所を形成していくことなった決定的要因のひとつなのは疑うべくもなく、そんなことは、みなが口にしていることなのだけれど、このFuck off, Amerikaの最後のシーンをみながら、戦後の科学の進歩がなぜアメリカを中心にして、しかも、そこへやってきた亡命者や移民者たちによってもたらされていったのか(もちろん、アメリカとはそういう国なのだが)、特にいまいった宇宙開発ということが、冷戦期アメリカの政治的動機はさておき、個々人の動機において、そのここの亡命者をめぐる状況がどのように左右していたのか、その視点から、この亡命者や移民を中心とした冷戦期アメリカの科学者の系譜と精神とはどのようなものだったのか、とも、また、ふとおもったりもしたのだが・・・。これはいささか飛躍がすぎましたな。

最近カストルフは最近セリーヌの「」に続いて、奇抜な、しかも、かなり右な、作家の作品を演出するようになりましたな、次回はなんでしょうね。よくよく考えれば、デーブリン(ベルリン・アレクサンダー広場)もいまや20世紀の古典作家だけれど、彼が登場した当時はかなり際物あつかいされていたのだし、やはり、一貫しているともいえる。セリーヌも今回のリモーノフもテーマ的に僕にはかなりピンとくるものがあって、かなりよかったと思うので、また次回作が楽しみですわ。
それではまた自戒。次回はルーマニア話でもしますか。乞御期待!

参考;
ベルリン・フォルクスビューネホームページ; http://www.volksbuehne-berlin.de/
沼野充義:仮死と再生−亡命ロシア人作家の見たアメリカ: http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/sympo/Proceed97/numano.html
北大スラブ研究センター 現代ロシア文学 REFERENCE GUIDE-ON-LINE:
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/limonov.html
その他:http://de.wikipedia.org/wiki/Eduard_Limonow

ルーマニアも日本もなつかしくてしょうがないのはなぜ?

日曜日にすでにベルリンに帰還していますが、翌日から大学にでていたり、旅行後ということもあって、やはり疲れがたまっていましたが、水曜日はちゃんと午後から講義にでて、その後、久々にサッカーの練習にもちゃんといきました。4週間練習にでていなかったにもかかかわらず、ルーマニアモルドヴァで毎日えんえんと歩き回ったおかげか、それほどコンディションもおちておらず、がんがん走れたし、体重を久々に図れば、旅行前とくらべて、4キロも落ちていてびっくり。体調はむしろいいぐらいで、ルーマニアモルドヴァでは毎日非常においしいものをたべていたのに(野菜が本当においしかったので、どっちかというとそっちが中心だったのだけれど)。練習後は、チームメイトらと、天気もよかったので、シュプレー川を見はらすバーで乾杯。ビールがうますぎてしょうがなかった。チャンピオンズリーグをみながら話もはずみ、帰宅は深夜前。昨日は、日差しがきついぐらいで、でも、待ちに待った、これぞ、ベルリンの夏。いよいよじゃ。けど、なんで今日はこんだけどんぐもりで、しかも、風がぴゅーぴゅーと冷たい?これがいわゆるベルリンのAprilwetterってやつで、つまり、4月の天気は非常にきまぐれということです。それでも週末は天気がええってねえ。楽しみじゃ。暇な人、この週末、カフェでお茶、あるいは、サッカーでもみながらビールのお誘い大歓迎。

はあ。しかし、去年10月にルーマニアを離れるときもそうだったのだけれど、今回も後ろ髪惹かれれる思いでベルリンへと戻る飛行機にのることに。なんですかね、これまで、ヨーロッパ中いろいろ旅してますが、ルーマニアほど、こんなに惹かれた国はないですわ、本当に。ベルリンは別として、例えば、チェコハンガリーも好きな国なのだけれど、やはり、やっぱり、ヨーロッパの国で、あのルーマニアはどことなく、ヨーロッパにありながら、ヨーロッパでないかもしれない気配で充満しているし、なによりも、気候なり風土が日本に近いような気もする。ブカレストを歩いていて、突如、ここは、東京都区内のどこかしら住宅地の路地に入り込んでしまったかのような体験もしたし、田舎にいけば、そこらじゅうで桜や林檎や桃の花が美しく咲き誇っているのをみて、ちょうど日本もちょうどこういう季節だな、と懐かしくもなったりして、ため息がでてしまったりもしてしまった。桜の咲く季節の京都にはもう通算で6年もいてないのだ。

ぶっちゃけ、もう懐かしいどころではなくて、ノスタルジアの域に入りつつあるのかもしれない。ま、そういうには、あまりにも、極東の島国に帰りすぎかもしれないけれど、僕にとっては、それほど3月の終りや4月の頭の日本の風景には特別な思いがある。多分、長く島国を離れていれば、いずれは誰もがそういう想いにいたるのだろうと思うけれど・・・。ノスタルジアというのは、もちろん、きわめて個人的でもあり、また同時に、ある種のコレクティヴな、それぞれのかつての場所や故郷、そしてそこでの過ぎ去った時間への想いなのだろう。いずれにせよ、その想いの度合いは過ぎ去った時間とどれだけその場所から離れているか、ということに大きく左右されることになる。多分、5年や6年やそこらでは、また、その場所へ、望めば、いつでも帰れるのであれば、口にするにも恥ずかしい類のことばなのかもしれないが・・・。

まあ、今日はこれでおしまい。この6ヶ月に二回もルーマニアにいってもうたんやし、こりゃなんかかかなあかんでしょうが、幸い今学期は時間があるゆえなんか書きます。ではまた自戒。

そーいえば、写真をアップしてるので、御覧あれ。
http://picasaweb.google.de/kodoberlin

学期前放浪予告第二回:SwooDooとBlue Airに大感動

えー、まだベルリンです。風邪を引いてしまって出発するのとベルリンを出発する飛行機やらを予約しているのをためらっているうちに土曜日になってしまいました。ま、でも結局月曜の朝に出発することなりました。ベルリンのシェーネフェルドからブカレストまで飛びます。

ところが、それにいたるまで、おとついから土曜日の夕方までどうやって黒海沿岸までいくべ、ということえんえんと検討させられました。体調がうわむきになってきて、よっしゃ、出発するべえ、となったのはいいが、出発直前になったということもあって、利用しようと思っていた航空会社チケットの値が、数日前にチェックしていたときとはくらべものにならないほど高騰。格安航空会社の近距離フライトは直前になるとどうも値段が上がる傾向にあるゆえ、ある程度は覚悟していたのだけれど、これでは予算的オーバー、陸路でポーランド経由でウクライナに入る以外に選択肢がなくなってしまった。陸路でいくと、安上がりで旅の予算的には上々なのは間違いないけれど、時間はかかる、丸二日に移動だけでかかる。しかも、時間が2週間しかないので、夜行にのるのが、一番時間を節約するためにはもってこいなのだけれど、ポーランドを抜けるのに最低一泊。西ウクライナをぬけてオデッサモルドヴァに移動するのに夜行一泊。ということは夜行連泊もありうるわけで、10代や20代頭のころならやっていたかもしれないけれど、今ははっきりいってつらい。そう思ったりもして、段々気が進まなくなってきてしまった、困ったことに。
でも、思い直せば、やはり、夏学期が始まれば、それこそ卒業の準備にぼちぼちはいるわけで、論文やらで8月9月までは最低ベルリンを出れる見込みがない。しかも、この夏学期はEUの外側の境界線、つまり現在の地理学的、文化史的、歴史学的概念としての「ヨーロッパ」について論議する分野横断的なプロジェクト(のはず)にでるつもりでいるので、直前のネタ探し(一応「研究」と称してはいますが)としてはちょうどいいし、そして、いまこの2週間以外にそのフィールドワークにいける時間がやっぱりなさそうなので、しかも、いかないと多分これから秋まで後悔するだろうとやっぱり思いなおして、今日の土曜日の朝からずっとパソコンに向かい続けていたのだけれど、なかなか納得いく値段でのチケットがでてこない。本当にこれは、また陸路でウクライナ入りだな・・・ということは明日にはでないと・・・(前回のウクライナへ入りについてはベルリン中央駅さんのブログにあります)、ということでポーランドを陸路で、しかも、できるだけ安く早く抜けるためのルートを昨日一昨日中ずっと調べていました。
そこで考えついたのが次の方法:まず、ベルリンを午前中9時ごろにたちフランクフルト(オーダー)へ向かう。そして、オーダー川に架かる橋を徒歩で超え、ポーランド入国。ポーランド側のフランクフルト対岸のスウビーチェSlubiceからバスに乗る。ここで考えたのは、シュレジエンを斜めにバスで突っ切って、ヴロツワフWroclaw(ブレスラウ)に向かう方法。
前回、ベルリン中央駅さんとウクライナへ向かったときは、フランクフルトからポズナニまで列車で、そこから列車でヴロツワフを通過したのだけれど、これは距離的にも時間的にもロスが大きい。そこでポーランド国鉄PKPのホームページをみると、11時前にヴロツワフからプシェミスルPzemyslというウクライナの国境近くの町にいく夜行がでている、それによれば、7時とのことで、それから国境をこえれば、まあ、お昼前には西ウクライナリヴィウLvivに着けるはず。
しかし、それに乗るためには、ベルリンからシュレジエンをどうやったら早く安く通過できるか、という点にかかってくる。Deutsche Bahnのホームページをみると、Goerlitz経由のプランをだしてくれたが、だいたいGoerlitzまでにいくのに30ユーロ弱もかかってしまう、これならぶっちゃけユーロシティーECにのってワルシャワにいくのとあまり変わらない値段である。あほらしいことこの上ない。だいたい、僕らは30ユーロもかけないで前回はリヴィウまでいってしまったのだ。
そんなわけで、じゃあ、シュレジエンをど真ん中を通るルートはどうか、というのを考えた。ここはバスしかない。ポーランドのバスはいまだに安い。列車より安いかもしれない。ただやはり列車とくらべるとめちゃ遅い。それでも距離的にそれほどあるわけでもないし、よくみると最近整備されたアウトバーンが地図上にも見える。いくらなんでも、半日もあればつくだろうと思い、そんなわけで、PKSというポーランドのまだ国営なはずのバス会社のホームページをみると、フランクフルトの対岸からスウビーチェからジェローナゴーラZielona Gora(旧名グリューンベルクGruenberg)というシュレジエンの街までバスが頻発していることが判明。しかも、1時間半でいける。高いわけがない。そして、そのジェローナゴーラから同じシュレジエンの大都市ヴロツワフにはもちろんバスが頻発している。それほどかかることもないだろうし、なによりバス代はかからんに違いない。
そして、ヴロツワフから11時前の夜行でプシェミスルPzemyslへ。そして、そのプシェミスルからウクライナとの国境のチェックポイントまでは小さい乗り合いバスで15分程度。ヨーロッパ連合の一番外側の国境を越えて、ウクライナに入国すれば、西ウクライナの大都会リヴィウまでは、またしても乗り合いタクシー(マルシュルートゥカ)で2時間。それこそ2ユーロもかからない。
そんなわけで、多分これがベルリンのみならずドイツ国内からウクライナにもっとも安くいく方法。しかし、つかれますよー、これは。最近、ところで、夜行バスや列車にのってもよく眠れんことが多いのです。10代のころや20台の頭などは、それこそ、夜行列車の硬い座席だろうが、夜行バスの狭い座席だろうが、無人駅の待合室の硬いベンチだろうが、なんの問題もなく寝れていたのだけれど、最近は飛行機のビジネスクラスでも満足に寝れないことがしばしば。これはやっぱ年でんなー。
それに、ポーランドで夜行列車にひとりで乗るのはやっぱり気が進まない。特に、座席車やコンパートメント車での移動は。僕自身はなんどもポーランドを夜行列車で移動したことがあるのだけれど、あまりかんばしい話はきかないし、かばんが起きたら消えていたなどという話はざらなゆえ、薦めたくもない。いつだったか、クラクフからウィーンへ、また、プラハからワルシャワに夜行で抜けたときなど、不安と変な緊張で全く寝れた記憶がない、まあ、その当時はまだ国境でのパスポートコントロールがあったので、どっちにしろ、国境でたたき起こされてはずなのだけど(今年の一月からはシェンゲン条約の枠内に2004年からEUに入った中欧諸国も加入したので、理論上はもうたたき起こされなくなったはずなのだけれど、実際はどうなんでしょう)。
前回、一回目にウクライナへいったときのベルリンへの帰り道ルブリンに数泊よっていこうとしたのだけれど、なぜか当地の安宿はどこへいってもいっぱい。ついたのが8時前とちょいとおそかったこともあるのだけれど、夜10時になっても適当な値段の宿がみつからず、どうしようもなくなって、これはビジネスホテルに大金積んでとまるしかあらへんところまでおいつめられて、駅前のビジネスホテルに向かいかけたところで、ひょいとルブリン駅発の時刻表をみたら、なんとヴロツワフ行きの夜行が15分後に出発するのを発見。もうええわ、夜行で一晩越してベルリン帰るべ、と即効列車に乗り込んでコンパートメントに腰を落ち着けて、安心安心、節約できてラッキー、となったのだけれど、そーいや、夜行はいややったんとちがうんか、とはっと、やっぱ一泊しときゃよかったかな、とそう思いなおしたのだけれど、その日は、ウクライナ国境を出るのにひと悶着があって疲れていたというのもあり(この話についてはまた時間があるときに書こうかなと思ってます)、気がつけば、コンパートメントを一人で占拠して6人分か8人分のシートを大の字になって占拠して爆睡、起きればもうヴロツワフにつく手前、夜行はガラガラすぎてなにもおこらず、ということもあったけれど、それはたまたま運がよかったからだともいえるし、いまだに面倒な目には一度もあったことがないので、最低限の注意だけはらっておけば、大丈夫どともいえるのだろうけれど、とにかく、ポーランドの夜行は、僕がいままで何もあったことがない、というのが幸運だといえるほど、いい話をきかない。

で、まあ、結局月曜飛行機でブカレストの飛ぶことになったのですが、きっかけは実にささいなことでした。もう陸路でポーランドウクライナ横断以外にありえないのかな、と覚悟しかけたころ、半ばやけ気味に、グーグルでドイツ語安い飛行機とかチケットとかで検索をかけていたら、たまたま検索結果の上位にきたのが、SwooDooとかいうアヤシイ名前の格安航空券の検索サイトだったのだけれど、あまり期待せずにそのサイトで東ヨーロッパ、ルーマニアとかで検索をかけてみると、月曜日の午前中ベルリンのシェーネフェルド空港出発で70ユーロという我が目を疑うような安い値段が上位にヒット。これはなにかの間違いでは・・・と期待もせずにそこにあったリンクにアクセスしてみるとつながったのが、Blue Airというルーマニアブカレストベースの格安航空会社。こんな会社はみたことも聞いたこともないと、グーグルやらWikipediaで調べてみると、わりかし新しい会社で、ベルリン就航はなんとこの月曜日、つまり3月31日。つまり、まだベルリンとブカレストを飛び始めてから今日の時点では一週間もたっていない。だから、安いのかとか思う一方で、この航空会社ははたして大丈夫やろか、とも思ったりはしたけれど、とりあえず、予約してみれば、速攻確定の連絡ありで、とりあえず、月曜の朝シェーネベルクにいくまではわからないけれど、そんなわけでベルリン脱出ほぼ確定。ハードな夜行二連泊の旅にはならない見込みで一安心。

ところで、ブカレスト行きの航空券を発見することになったこのSwooDooというサイトはいままでみてきた航空券の検索サイトとしては、使い勝手といい検索結果の表示といいピカ一ですわ。なにがいいかというと、行き先と値段と日程などのさまざまな要素を非常にシンプルに視覚的に比較できる、そして検索フィルターかけたあとの表示がなによりもシンプル。細かい行き先まででるのでよい。使えばわかります、これはすごくよくできてるサイトじゃないでしょうかね。他のサイトにあるようなうっとおしい広告がほとんどないといっていい。その手のサイトはこのSwooDooとくらべたら、ほんまカッコだけといっていいし、ひっかかる航空会社が大手だけで、そんなこともあって、いままで、そして、今日と昨日もその手のサイトを使ってみたりしたけれど、ほとんど使えなかった(つかいこなせなかっただけかもしれないけれど)。だいたい、Blue Airなんてひっかりもしなかったし、直前出発の検索などほとんどできないのに等しかった。
いやいや、今日は安いチケットを探し出せたからというのもあったのだけれど、このサイトには感心させられましたわ。今までおめにかかってこなかったタイプのサイト。もちろん、ドイツ発の場合ですよ、他の国はしりません。とはいえ、これはすばらしい、ほんまリスペクトですわ。これからは日本行きもこれで探すことにするけど、ちなみに、いっときますけど、航空券を安く買うのは、旅行会社を通してじゃなくて、インターネットを通じて航空会社から直接かうのが一番ですよ。だから、使いたい航空会社のホームページを定期的にチェックするのが安く飛ぶための方法です。ルフトハンザのReady to FlyというラストミニッツはSwooDooでもひかからなかったので。でも、インターネットでしかうってないような格安航空会社を比較する場合はこのサイトが今の時点では一番いいとはおもいます。

というわけで、3度目のブカレストへれっつごーじゃ。ベルリンに戻ってくるのは20日だと思います(まだいつか自分でもきめてません)。ではまた自戒じゃあ。

学期前放浪予告:ルーマニア、モルドヴァ、ウクライナ編

  • キシナウが呼んでいる・・・(Wikiから引用、自分で取った写真ではありません。)

さて、おひさでございます、みなさま。
無事、先日月曜日ほぼ一年間先延ばしになり続けていた美学科の中間試験に合格して、ぼちぼち卒論準備と卒業への道筋を整えることになりましたが、すでに4月。まわりがイースター休暇で伯林をあとにした友人たちや、空っぽになるどころか観光客で浮かれかえるベルリンを横目に、うらめしやー、と試験の準備におわれとりましたが、合格、と、めでたい、ってこととで、あと夏学期開始まで2週間をきったこの時間はひさびさの完全オフを決行。これを有効につかわん手はない。ということで、もはや恒例ともなった学期前放浪を決行することにあいなりました。もちろん行く先は伯林より東側、西側は絶対にありえませぬ。
ところが。行き先が今のいままで決まらんかったのです。試験の3,4日前ぐらいから、そういや、どこかいくんとちがったのか、そんなんいうたかて、今、そんなこと考えているひまないやろー、と考える暇を与えてこなかったのですが、月曜、試験にうかったのち、春の日差しを浴びながら、博物館島の向かい側にこしかけて、シュプレー川を行きかう船を眺めながら、あー、試験終わったなー、しっかし、なんか空虚やなー、と1時間ぐらいとなんも考えんとぼけーっとするぐらい脱力、その後は、なにをするでもなく、おなかも減っていたので、地下鉄に乗ってクロイツベルクに昼食をとりにいって、気がつけば、コトブサトアーの周辺からS-BahnのNeukoellnまでふらふら歩いている始末で、帰りのS-Bahnでようやく我にかえって、そーいや、明日からどないすんねんと、思い当たる始末。うーむ。我らがイヴィツァ・オシムもいっていたではありませんか、「ライオンに襲われた兎が肉離れをしますか」と、オフなんかしても意味はないと。頭はつかわなければ、衰え続ける。確かに。この2週間をさらに有効につかって読書のため図書館にこもるか。読みたい本はなんぼでもある。ヘブライ語チェコ語をこの際ちゃんと自習せなあかんのも事実。いやいや、家探しをこの間に、なんてことも頭を掠める。しかーし、思えば、この半年間、ルーマニアから伯林へ戻って以来のこの半年間、いつかこの地へあいしゃるりたーん、と思い続けたのではなかったのか、夏学期がはじまったら、それこそ8月9月までまた伯林から一歩もでれんようになってしまうやろが、と、思うが矢先、やはりこれは2週間再び学期前放浪じゃ、ということになった次第でございます。

というわけで、今日は、学期前放浪予告。行き先は再びルーマニア、そしてモルドヴァウクライナ。ということで、しばらく伯林から2週間ほど消えますんでよろしく。といいつつ、まだいつ出るかも決めてないのですが。多分、土曜日。ブカレストへ。三度目。問題は、伯林への帰りで、ウクライナからポーランド経由で直で陸路で帰還してもよいんやが、3年前のウクライナを放浪した帰り道、相当疲弊させられたので、帰りはやはり飛行機でぴゃーっと伯林へ高飛び、これは今回は譲れない。やわでんな、年ですねん、これは。
それはともかくケチろうとおもったら、なんぼでもケチれるので(3年前は伯林からキエフまでなんと35ユーロでいけたゆえ。この顛末は伯林での同志であるベルリン中央駅さんのブログにあるのでチェックしてください。)、この場合は陸路がいいのだが、ウクライナの西の端のリヴィウからでも最低丸一日はみないと伯林には戻れない。めんどくさい。それゆえ、まだ帰りの飛行機をいまだにネットで検索中。こういうときは高くつく。あーめんど。また陸路にすべきか、それとも、ブカレストからぴゃーっと、ドイツまで飛行機か。まあ、旅行の終盤は疲れてるやろうから、それでもいいんだろうけれど、ちょっとまだ決めかねてる。というわけで、土曜の出発までとりあえずこの話は続きます。ということで、また自戒じゃ。

Jose James: The Dreamer

Jose James:The Dreamer (Brownswood)

机のまわりでめちゃくちゃになっていたCDを整理していたら、去年の11月ぐらいにもらったこれがでてきて、ききなおしたらすばらしかったんで、今日の一枚。今日ちなみにベルリンはDussmannの地上階のJazzコーナーでもみかけましたが。

Jose James and Band:Bohannon, Berlin−Mitte

そう、それでライブにもいったんだった。去年の10月の最後の日、たしか木曜日の夜だったか、ベルリンはBohannonに日本からSoil & "Pimp" Sessionが、そしてロンドンからジャイルス・ペーターソンが、メインゲストとしてきていたコンサートだったのだけれど、Jose Jamesはそこにスペシャルゲストとしてというより前座としてきていた感じだった。ところが、あまりにも印象的なヴォーカルだったので、僕にとってはどちらがメインゲストかわからなかったぐらいで、しかも、Soil & Pimpのライヴも、どうしても印象的な音楽とヴォーカルをきいた後だったので、多少大味に聞こえてしまい、結局、一人半ばで切り上げて家路についてしまった。Jose Jamesのすばらしいヴォーカルの余韻をかみ締めながら、自転車をこいだSchoenhauseralleはすでに冬の気配が見え始めていた、しかも、寒い夜だった。今年は結局暖冬だったのだけれど・・・。ライブのそのほかの写真はここから。以上。寝る。お休み。また自戒。

http://josejamesmusic.com/index.htm
http://www.myspace.com/josejamesquartet


PS;日本でも4月3日にライブがあるとか。やはり、ジャイルス。
http://www.j-wave.co.jp/original/j-wavelounge/thu/

「非日常」、あるひとつの「日常」の終り、そのまた「日常」の続き?

S-Bahnhof Warschauerstraße。3月15日深夜。
深夜前なのに、ものすごい人出。みんな夜のベルリンへ・・・。

ベルリンでは、ついに明日から再びバスならびにトラム、地下鉄が運行することに。とはいえ、ストはまだまだ続く模様。平常ダイヤにもどるまではまだまだ時間がかかるということ。やはり、はやめはやめの行動が大切。明日はついにヴィザの延長にいかなあきません。明日は6時前おきですわ。書類のミスがないようにこれからチェックですわ。写真も朝取り忘れへんようにせんといかんしね。以上BVGのホームページから。(http://www.bvg.de/index.php/de/Bvg/Start

Busse und Bahnen fahren ab Montag wieder. Weil große Teile der BVG weiter bestreikt werden, muss mit Behinderungen und Einschränkungen gerechnet werden Von Montag, 17. März 2008, Betriebsbeginn (cirka 4:30 Uhr) an ist der bisherige, streikbedingte Notfahrplan beendet und U-Bahnen, Busse und Straßenbahnen der Berliner Verkehrsbetriebe (BVG) nehmen den Betrieb wieder auf, ohne allerdings zu 100 Prozent den regulären Verkehr gewährleisten zu können. Da nach wie vor neben der gesamten Verwaltung auch wichtige betriebliche Einrichtungen wie alle Fahrzeugwerkstätten bestreikt werden, muss mit teilweise gravierenden Einschränkungen beziehungsweise Behinderungen auf allen Linien gerechnet werden. --- Bitte beachten: --- Einzelne Fahrten können ausfallen oder sich verspäten. Dies gilt auch für die hier ermittelten Verbindungen, bitte berücksichtigen Sie dies bei Ihrer Reiseplanung. Danke für Ihr Verständnis.


S-Bahnhof Potsdamer Platz。3月16日夕方。 

それにしても、スト期間中おもったのは、ベルリナーの辛抱強いこと。バスもトラムも地下鉄も走っていないのに、ちっともあわてることのない。むしろ、先週も半ばにさしかかると、あたかも何事もないかのよいに、街自体が落ち着きを見せてるように感じてしまうぐらい。バスもトラムも地下鉄もない?じゃあ、どこもいかんかったらええねん、あるいは、チャリンコでいったれええねんって、もしくは、しゃーない車か、ガソリン払う金ないけど、しゃーねーやろがー、せやけど、方向いっしょやねんし、のけったるでー、ってそういうアクションもあった。確かに、車の量は見た目以上に多くて、喉風邪を数日来こじらせているせいか、空気が車の排ガスで悪くなっている気もしたけれど、いつもよりたくさんの人であふれかえってるS-Bahnも駅も、そこにいる人たちもある種の非日常を楽しんでいるようにもうつった。もちろん、多くの人にとってこの2週間弱は不便は強いられたには違いない。でも、ベルリンは30年弱ものあいだ壁にかこまれてたんやし、これぐらいでへこたえるような街やない、むしろ、街を歩いていて、いつもよりたくさんの自転車がそばをびゅんびゅん飛ばしているのをみて、非日常をなにごともなくすごさせる、なんとなく「日常」に変えるようなこの街のおおらかさ、これが、あまりにも、あまりにも、ベルリンな刹那、らしきものを感じさせられたようにも思う。今度ばかりはどうなることやら、これを期に革命でもおこるかな、などと、このままたががはずれてしまって世界が終ってしまえばいいや、などと、この無期限のストが始まったときには、無論、あまりにも幼稚なことをいってしまっているとは重々承知はしているのだけれど、無邪気にも夢想してしまったり、反面、ひさびさに長いながーいベルリンという街への思いのようなものをぶちまけることにもなったのだけれど、やはり、この街にある「なにか」とはこういうものなのかな、といまさらながらに思う。とここまで書いてやはり、ストごときでは、革命はこの街ではやはりおこりえないか、革命なんて口にしてしまうなら、Watt? Haste ja maa jerade Revolution jesagt?Altaa,duu,Scheissee,so watt is heer jar nee maa wiedaa zu passieren!(はあ?革命いうたか?おっさん、そんなんここで二度とおこるわけないやろうが!)ベルリナーにあざわられるにきまってる。
とはいえ、今回のこのストの期間中は(まだまだ続く模様だけれど)、僕にとってはこの街とその日常について、いろいろ考えるには刺激に満ちた2週間ではあった、といって今日はしめくくるとします。しかし、この「非日常」ならぬあるひとつの「日常」が終わったあと、どう暮らすかが明日からやはり問題なるのだろうけれど・・・。いや、「非日常」なんてやっぱりありえない「日常」なのか、こうしてなにもなかったかのように過ぎていくのが「日常」なのか。そんなわけで、今日もまたしても自戒、自戒、ほんならまた次回。ベンベン勉・・・。

最後に今日の一枚。
RADIO CITIZEN:BERLIN SERENGHETI:ubiquityrecords (2006)

もうかれこれ一年以上前にでたアルバムだけれど、ベルリンのフュージョンあるいはジャズシーンを代表するようになったバンドにもなったRadio Citizenのデビュー作。先週、木曜日と金曜日にベルリンはTausendという新しいバーでコンサートがあったのでいってきたのだけれど、やはり、このバンドのライブはもう3度目にもかかわらず、確かな音楽にはいまさらながらにうならされた。いま2枚目のアルバムを収録中とかで、披露された新曲もはずれなし。個々の奏者やボーカルの技と味を感じられる音楽。
http://www.myspace.com/radiocitizen
http://www.ubiquityrecords.com/radio_city.html